手を差し伸べられた時のこと
みなさんこんにちは。
菜花柚仁です。
時々、足が動かなくなった時のことを思い出すことがあります。
それは辛い気持ちになるとかではなく、その時の経験で学んだことを思い出すんです。
時間が経ってから思い出すことで、当時気が付かなかったことや改めて感じることがあり、今日もふと考えていました。
今、私の考えや仕事の基本になっているものは、心と身体を整えること、自分軸を形成すること、それをピアノを使ってサポートすること、です。
一応サポートの相手は子供たちというふうにしていますが、どのテーマも子供であっても大人であっても大事なテーマだと思っているので、どんな人にでも当てはまるんじゃないかと思っています。
私がそんな考え方に至るまでにはいろんな人の支えがあってこそでした。
足が動かなくなった時、ある先生が神社に連れて行ってくれて、お参りをしようとしたんですが、お賽銭までの短い階段に、車椅子用のスロープが作られていて、私はそこをヨボヨボの状態で歩こうとしました。
先生がその時手を出してきたので「えっ何ですか?この手は。」って咄嗟に言ったんです。
今考えれば歩きづらい私に手を差し伸べてくれたって思えるのですが、その時の私はまったくわかりませんでした。
そして先生が「歩きづらいだろうから手貸すよってこと」と言ってくれてようやく理解する私。
この一連の記憶が今日ふと思い出されました。
それで思ったんです。
手を出された時に「手を貸してくれたんだ!」って気が付かないような心の世界に当時の私は生きていたのかって、そんなつらい世界を生きていたのかって思って、当時の私を抱きしめてあげたくなりました。
苦しんでいた時の記憶と今温かい世界に生きている私が同時に感じられてなんだか泣けてしまいました。
あの頃は、手を差し伸べてくれる人なんて誰1人としていないんだから、私一人で自分の足で誰にも頼らず歩いていかなきゃって気を張ってたんです。
だから足が動かなくなったのかな?
その考えは足が動かなくなっても同じで、例え足の動かない人がいたところで、手を貸してくれる人はいないと思っていたんだと思います。
だから、あの時先生の善意に気がつかなかった。
そんな自分がなんだか可哀想に思えて。
でも足が動かなくなったことで、意外に手を差し伸べてくれる人がいることを知ることになりました。
エレベーターの「開ける」を推しててくれる人とか、車椅子から立ってレッスン室に入ろうとして車椅子を倒した時に立てかけてくれた人とか、仕事の時に無理やり歩いて仕事してたら心配してくれた生徒さんの親御さんとか。
それに気がつくきっかけが、先生との神社での出来事でした。
今までは、私自身が困ったことがあった時には自分一人でどうにかしてきました。
でも、足が動かないという困りごとは、今までの困りごとと種類が違って、必ず何かでは人の手を借りなければいけない状況になってしまったんです。
親には介護のようなことをさせ、他人の手も借りて過ごしていたことを当時は受け入れられませんでした。
「どうせ面倒くさいと思ってるんでしょ」が口癖で、善意なんてあるわけないと、善意という概念さえ私には存在していませんでした。
今はこんなに温かい人たちがいて、そんな人たちに囲まれていることに幸せを感じられていますが、じゃあこの世界が本当に温かい人たちしかいないのかというと、現実はそうではありません。
やっぱりひどいことをいう人もいればそれを見て見ぬ振りをする人もたくさんいて、もしかしたらそういう人の方が割合的には多いかもしれません。
だって現に学校でも職場でもいじめや陰口は無くならないし、それを知っていて見て見ぬふりをする人はもっと多いと思います。
それでも、どこかには温かい人がいると信じて生きてほしいと思うんです。
そう思ったら世界がもっと優しく見えるようになりました。
電車で席を譲る人が1人いたら、あと10人くらいは「あ〜先越された」って思っている人がいるかもしれない、とかね笑
動かなかった人の中には、本当は動きたかったと思っているような人がいるんじゃないかって、目に見えない善意にも想い馳せられるようになりました。
もし、この世の中は冷たいと思っている人がいたら、私がされて嬉しかったように、私も手を差し伸べたいなって思います。
それをピアノ教室としてやれたら幸せです。
案外世の中悪くないよって。
最後までお付き合いくださりありがとうございましたm(_ _)m